コーディングをすればAIが先回りして補完し、プルリクエストを出せばAIが即座にレビューを返す。Slackを開けば、AIが「もっともらしい返信」を提案してくれる。確かに効率は上がりました。リリースまでのスピードはかつてないほど速くなっているでしょう。
しかし、ふと画面から目を離したとき、不思議な空虚感に襲われることはないでしょうか。 「今、私は自分の意思で仕事をしただろうか?」と。
「意思」の消えたソースコード
かつて、コードには「体温」がありました。 「ここは将来を見越してこう書いた」「この処理は泥臭いけれど、あえてこう残した」。1行1行にエンジニアのこだわりや、試行錯誤の跡が刻まれていました。
しかし今はどうでしょう。AIが吐き出した最適解を、私たちは「正しい」と信じて受け入れるだけ。そこには「どうしてもこう作りたい」というエンジニアとしての情熱や、独自の美学が介在する余地がどんどん狭まっています。
記号化されるコミュニケーション
チャットも同じです。 丁寧な敬語も、角の立たない断り方も、AIが完璧に生成してくれます。便利です。でも、そこには感情がありません。記号として正しい文字列をやり取りしているだけで、相手の心に触れている感覚が薄れていく。
私たちは「AIを使いこなしている」つもりで、実は「AIが動きやすいように、自分たちの思考を型にハメてしまっている」のではないでしょうか。
主体性を取り戻すために
IT企業の本質は、テクノロジーを使って新しい価値を「創造」することだったはずです。 もし、作るプロセスから「悩み」や「葛藤」といった人間の泥臭い部分が完全に消えてしまったら、それはもう「創造」ではなく、ただの「自動生成」です。
AIを否定する必要はありません。これほど強力な道具を使わない手はないでしょう。 けれど、使い方は「ちゃんと」考えなければなりません。
「このコードをなぜ採用したのか?」「この返信に自分の心は乗っているか?」 AIが出した答えに、最後の一滴の「自分の意思」を注ぎ込むこと。ハンドルをAIに明け渡さず、あくまで自分の情熱を実現するための道具として手なずけること。
効率の波に飲み込まれて、自分というエンジニアの魂までAIに明け渡してしまわないように。私たちは今、あらためて「道具との向き合い方」を問われているのだと思います。